城攻めにも色々な方法があります。
誰でも知っている有名な城攻めの戦法といえば、兵糧攻めではないでしょうか。

多くの武将は城を攻めるに当たって味方の損傷をなるべく少なくしたいと考えます。
よほどの事情が無ければ大勢で石垣をよじ登って無理攻めしたりはしません。

城攻めの名人として知られた豊臣秀吉が得意としていたことでも有名なのが兵糧攻めです。
これは味方から一人も死傷者を出さずに済む可能性がある戦法です。

一般的には城に立てこもっていても、何らかの方法で外部と連絡が取れています。
ですから兵糧攻めは、まず城の周囲から食料をなくすところから始めます。
いわゆる食材の買占めです。
城の中の城主に恩義を感じている農民も、相場の何倍もの金を積まれて米を売ることになります。

さらに城を幾重にも囲んで、外と接触できなくします。
そうしておいて後は時間が過ぎるのを待つだけです。
城の中の兵士は毎日食事をするので、備蓄しておいた食糧がどんどん減ることになります。

限界を感じたら城の門を開いて降参することになります。
有名な鳥取城の兵糧攻めでは多くの餓死者が出たと伝えられています。
秀吉の城の包囲は尋常ではなかったようです。

去年の大河ドラマのクライマックスは大坂の陣でした。
最初の冬の陣の時に真田信繁が野戦を主張したのに採用されず籠城戦になったという経緯があります。
ここで籠城戦は援軍が来ることが前提という、当時の常識があります。

しかし、この時日本は二つに割れて、守る豊臣側と責める徳川側があり、援軍はいなかったのに、なぜ籠城したのかという疑問があります。
他の理由もあって籠城したわけですが、援軍という意味では可能性があったのです。
当時の武将たちは、優勢な方につくという考えがありました。

しかも大坂城には十分な備蓄と地形上の有利さもあり、簡単には落城しないという状況がありました。
ということは、長期間持ちこたえて、徳川方のモチベーションが下がってくれば寝返るという事も十分にありました。
また、日和見を決め込んでいた武将が、徳川軍が弱ったのを見て援軍として駆けつける可能性もありました。

実際にそのようになりつつあったわけです。
冬の陣で徹底抗戦すれば和睦になるのは日を見るよりも明らか。
有利な豊臣側は、有利な条件を示すことが出来たわけです。

しかし、家康にだまされてすべての堀を埋めてしまったために、その後の勝利の可能性は途絶えたわけです。

城というのは敵の攻撃を防ぐために様々な施設を造っています。
堀や門や石垣ですね。
敵の様子を見る櫓もそうです。
戦国時代の城は山の尾根等に建ててあり、自然を要塞の一部にしていました。

江戸時代の末期に日本で城攻めが行われました。
北海道函館の五稜郭です。

この時は戦国時代の城攻めとは大きく異なっていました。
それは火器です。

戦国時代はせいぜい鉄砲、また音ばかり大きくて破壊力の少ない大砲程度が使われていました。
ところが江戸時代末期になると強力な大砲が海外から入ってきていました。
また巨砲を搭載した船からの艦砲射撃という方法もありました。
つまり、堀や石垣は役に立たなかったわけですね。

世界の美しい城は、強力な火器が世に出てくる前のものが多いのではないでしょうか。
 

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